字多田ヒ力ルのトラヴェリング

ジタダヒチカラルの自由自在な動き回り方

不快感を覚えた自分は疲れた

 

 

 

 

加藤純一が「イナズマイレブン1を楽しみにしている自分に驚いている。」という配信をやってて、楽しく見終わった後、そういえばこの配信のタイトルって何から来てんねやろう?何かしら元ネタがあったはず、って思って「自分に驚いた」で検索した。ほんなら、一番上に「不快感を覚えた自分に驚いたんだよね」って西村博之が言ってるYouTubeの動画があって、なるほどと。ほんでYouTubeに飛んで動画を見てみると、パンツマンとニューヨークが共演した生放送が視聴者に不評やったことについて、西村博之は「ニコニコ生放送はプレミアム会員に金を払わせておきながら視聴者を不快にさせる番組をわざわざ作った」というのを目の当たりにして不快感を覚えた。ほんで、別に自分が直接不快な目にあった訳じゃなく間接的に不快なことがあったってのを知っただけやのに不快感を覚えたってことに自分でも驚いた。だから、「不快感を覚えた自分に驚いた」と。

ネタ…なのか…?

動画のコメント欄を見ると「自分の感情を客観視し過ぎ」とあった。果たしてそうだろうか?例えば、ボウリング大会で自己ベストを出したかったが出なかった。しかし全力を尽くしてやった結果、達成感を覚えた。目標を達成せずとも全力を尽くしたことで達成感を覚えたってことに自分でも驚いた。だから、「達成感を覚えた自分に驚く」と。どちらの例にも「不快に思わないだろう…からの不快」「達成してないのに…達成感」というギャップがある。このギャップを感じるためには感想を記憶しておくことが必要で、ある時の自分の感想、あるいは他人(創作物のキャラなど)の感想とその時の感想とを比較することで感想の感想が言えるんやと思う。「自分の感情を客観視し過ぎ」って思った人は、あんまり自分の感情・感想を記憶していないのかもしれない。

コメント欄には他にも「回りくどい」とあったが、むしろ逆だと思う。西村博之は驚いた。何に驚いたか。不快感を覚えた自分に。むちゃくちゃ簡潔やん。たぶん、回りくどいと感じた人は国語が苦手で、「覚えた」をすんなり形容動詞として消化できひんかったんかな。確かに、「不快感を覚えた」ではなく「不快だった」の方が簡潔だと思う人もいるかもしれないが、自分は少しニュアンスが違うと思う。「不快だった」には反応が早い、「不快感を覚えた」には反応がゆっくりなイメージがある。そのスピードは言葉数に影響されるのかもしれない。

そして、回りくどいというのはおそらく、今なお書き込まれ続けるこの文章のようなものを指すんであって、西村博之の発言は全く回りくどくないと思う。

最後に、コメント欄の返信部分をよく見ると、真っ当な意見も多々あり、俺が一人ではしゃいで西村博之の発言は変か?変じゃないだろう!とここで宣うことが一体何になるというのか。「不快感を覚えた自分に驚いた」がネタにされたことに少し不快感を覚えたから書き始めたこの文章の最後でそんな自分に驚いてたら良かったのに今はただ疲れてる…。疲れた。