すべての物事の理由は後付けやとボク思いますよ。
だって、コーヒー飲みたいなって思ってても飲まなかったり、眠たいなって思ってても寝なかったりしません?
オレはする。
オレは理由っていうのが後付けやってことが、「過去」と「未来」の関係性と似てると思う。
どういうことかというと、「過去」と「未来」のうち、先に存在するのは「過去」やんか。だって、「未来」っていうのは既に何度か経験(もしくは疑似体験)した「過去」の蓄積によって初めて考えられる概念やから。今までに一回も雨が降ったことないのに、明日雨が降ることは想像できひんやろ? ほななんで雨が降るかもしらんって想像できるんかというと、今まで生きてきて何回も雨降ってるからやん。つまり、「過去」があって初めて「未来」が存在できるっちゅうこと。
ほんで、この場合の「未来」と似てんのが「理由」ちゃう?
「理由」も所詮、結果が伴わなければ可能性にすぎひんってこと。詳しく云うと、「理由」だけあっても「結果」がなかったら、たとえば「コーヒーを飲みたかったから飲まなかった」っていう変な文になってまうで。だって理由やから絶対「から」を使わなあかんもん。「コーヒーを飲みたかったけど飲まなかった」やったら、飲まんかった別の理由が要るようになってくるし。つまり、「結果」があって初めて「理由」が存在できる。
ほら、なんか似てない?
でも、概念の関連性は似てるけど、時間軸的には逆やけどね。
(過去⇒未来、理由⇒結果)
じゃあ、ほんなら、なんで後付けやのにみんなして「理由」をつけたがるのか。
安心したいからやろうね。あるいは納得か。
一つの結果に対して「理由」なんてのは無数にあるけど、世の中アホばっかりなんで、それっぽい理由があれば大体みんな納得しよるわけやな。たとえば誰かが死んだとして、犯人が捕まれば、「ああ、その殺人犯が殺したから死んだのね」と納得したりしよんねん。ほんまはなんにもわからへんはずやのに、なんとか自分なりに消化して少しでも安心しようとすんねん。それは別にしゃあないことやと思うけどな。
「理由」なんてもんは後付けにすぎひんから、世の中「結果」がすべてやで。
だから人を殺すんは命懸けのときだけにしときや。
なんで人を殺すとかいう物騒な話になってんねん!(笑)
人の死に近い病院に行ってきた「から」かなあ。
人口は減ってるのに健康寿命を延ばすとはこれいかに#衆院予算委 #国会中継
— 字多田 (@jitandacar) 2018年2月2日